気象調査は気象情報に比べて法的に自由度はあるものの、終戦直後の日本社会は日常生活にすら困窮する時代であり、⺠間組織で必要に迫られ独自に気象調査等を行った事例はあるが、それらを公表する迄には至らなかった。気象調査を手掛けるにしてもニーズに対応する技術的環境が整っておらず、公的機関が主体で、⺠間はその手伝い(アルバイト)程度であった。当初は公的機関や大企業が設置した観測設備で得た観測記録紙の読み取りと気象統計に始まり、処理結果を指定の形にまとめて納入していた。気象技術の乏しい⺠間は、気象官署や大学研究機関等の職員から技術指導を受けながら、気象技術を緩やかに発達させてきた。当時、気象観測は棒状温度計、ゼンマイ式アスマン型通風乾湿計やロビンソン型四杯風速計、風車型風向風速計等の新旧の観測機器を使用した目視観測が主であった、無人観測をする時はゼンマイ駆動の天賦式円筒時計に記録紙をセットしたバイメタル式自記温度計や自記電接計等を使用していた。円筒時計は設置環境で回転に遅速が発生し、結果、記録紙の時間目盛りと実時刻に時間差を生じる。この時間差を補正した後、該当するデータを読取る事になる。基準とする時刻は、記録紙を交換する時にタイムチェックを行い、このチェックを基に補正するのが一般的であった。現在の電子時代でも時間校正手段がない観測システムでは基本は同じである。読み取った気象データは、算盤やタイガー手廻計算器を駆使し気象統計を行った。この古典的な気象観測用機器も電子技術の発達で、電子式に大きく変貌した。中でも記録部は新しい感部と自動平衡記録器の出現でシステム構成は大きく変わり、安定した記録ができるようになり、詳細なデータが取得可能になった。反面、読取り量は増加してきた。このため、1970 年代末に汎用的データロガーが出現した。また、1960 年半ば迄、気象解析等の複雑な処理は対数表と計算尺を使用しており、高価であったが電卓が誕生するまで続いた。1970 年代に入ると電子技術が進み電卓が作られ計算内容は充実し、低消費電力化を実現、小型軽量安価となって、個人でも所有できる時代となった。
 戦後復興は飛躍的に進み食糧難も解消するものの、大気汚染等の公害が社会的な問題になり、当初、汚染源の対策に重点が置かれたが解決には至らなかった。法規制もなかった中で、昭和 24(1949)年に東京都は「工場公害防止条例」を制定した。経済成⻑に伴い大規模工業地帯、臨海工業地帯等が新たに誕生し、工場の排出する煤煙量は軽減出来ず、汚染は広域に渡り、日中でも視程が 100 m 以下の地域も出現した。当初、公的機関が対策のための実態把握観測を実施していたが、その対応に限界が生じ、1960 年半ば頃から⺠間に委託するようになり、低層大気の気象観測、大気汚染物質の立体的な実態調査等を行い、環境対策に供した。昭和 39(1964)年に政府は厚生省に公害を担当する「公害課」を設立、昭和 46(1971)年に環境庁が設立されて、各官庁の公害行政を一本化した。これら対応は今日の環境行政等の基礎を作った。公害や大気汚染の歴史等は公表されておりそれらを参照されたい。

 Mest 渡邉好弘