昭和 20(1945)年 8 月 14 日ポツダム宣言受諾、9 月 2 日に東京湾上の米国戦艦ミズーリ艦上で、連合軍と日本の間で降伏調印が行われ、GHQ の占領下で統治が始まった。国土復興の中、昭和 22(1947)年 5 月 3 日、日本国憲法が施行された。昭和 26(1951)年 9 月 8 日、サンフランシスコ平和条約が締結され、約 6 年続いた連合国の占領政策は終了し、日本は独立国家となった。昭和 25(1950)年、大規模な行政改革が実施され、気象台も例外ではなく組織改編や法律改正、業務の整理、そして傘下に財団法人 気象協会(現・(一財)日本気象協会)が誕生した。
 復興と共に気象情報のニーズが高まり、国以外の組織が気象情報の提供を担う事になった。昭和 28(1953)年、日本は WMO に加盟し、その3 年後の昭和 31(1956)年、気象台が気象庁に昇格した。気象業務法の施行下で、気象事業者はそれぞれ得意分野で活躍している。現在続いている電話による天気予報が始まった年で、当初電話番号は地域で違っていたが、昭和 39(1964)年 3 月に 177 に統一している。また、ラジオ放送は公共放送(NHK)のみであったが、新たに放送法が公布施行され、昭和 26(1951)年、⺠間放送が参入して天気予報も放送され始めた。昭和 27(1952)年、気象業務法が制定され認可を得れば⺠間も気象事業が可能となった。国の業務の一部が⺠間に開かれ、気象ニーズに⺠間が応じる形が整い、その第一号は昭和 28 (1953)年 5 月に発足したトウジョウウェザー サービスセンター(現・いであ)と云われている。また、同年はテレビ放送の始まった年でもある。認可を得ても天気予報の解説が中心で、独自に予報の発出は出来なかった。メディアへの情報提供は当初気象台が⺠間の技術指導を兼ねて一部を担当した時期もあったが、ニーズ変化等で、現在では特別な事象以外は⺠間で行っている。認可を得た気象事業者は、気象台の気象情報を基にして天気図作成や気象解析を行い、広くニーズに応えた。
 1970 年代にマイコン、パソコンの出現、同時に関係技術も日々進歩した。その後、日本気象協会は昭和 52(1977)年、気象庁の気象情報を集配信するシステム MICOS を設立し、MICOS 経由で ONLINE の情報提供を開始した。当初専用端末等を対象としていたが、デジタル機器を受信端末とする利便性向上を目的に昭和 58(1983)年システム更新を行った。それ迄の紙出力から直接情報蓄積や二次処理を実現した。また、テレビ局は FAX や電話で気象情報を収集して天気番組を制作していたようだ。そこで、電電公社の電話線を使い REAL TIME で稼働する天気番組送出システムの検討が行われ、後に局の番組制御システムとリンクしたパソコンによる天気番組自動送出システムを実用化し同システムの基礎を作った。昭和 60(1985)年、NTT が誕生したが気象情報のONLINEは黎明期であり今後の環境整備に期待される状況であった。平成 6(1994)年、(財) 気象業務支援センターが設立され、気象予報士試験、気象測器の検定代行等を担当し、さらに MICOS 業務の一部が移管された。予報士誕生で独自予報を発出するまでになったが、国⺠の生命財産に直接関係する事象は、気象庁の専管で、気象事業者には許されていない。通信に関わる法律改正等で INTERNET 社会となり、周辺機器で規格化等が進み普及に拍車を掛けた。一般に普及したのは、Windows 95 が誕生した平成 7(1995)年以降と云われている。今日では通信環境や法の整備が整い無線を利用した携帯電話をはじめ、他の通信端末で何処でも容易に気象情報の入手が可能な社会になった。

 Mest 渡邉好弘